SANSUI -もうひとつの山水電気-


誰も知らなかった山水電気 -3-


このぺージは、山水電気とともに歩み、ひとつの歴史を作ってきた、ある人物の赤裸々な生き様を
フィクションを交えながら(?)ひとつの小説へと仕上げていただいたものです。
ひとつの大企業と、一人の男の半生をお楽しみください。(登場人物名は全て架空です。)



【3.微震】

 昭和47年1月1日、山水電気は厚生年金基金を設立した。
一流企業でもこの時代では稀であった。
従業員の福利厚生、老後の生活資金から見れば、手厚い制度ではあったが、会社の経営的には相当の負荷を背負ったのであった。

 この年、山水電気はオープンリールデッキを発売した。

 サンスイ独自のシステムであるQS4-チャンネルステレオのデモの為、各地で、サンスイミュージックフェステイバルを開催し、国内外とも売上金額、利益額とも絶頂期であった。

 ボーナスは10月に臨時ボーナスが支給され年間3回、8ヶ月分に達していた。
反面、実際は、このころから既にサンスイ不況(ベトナム戦争が終局になり米軍市場が縮小してきたのにもかかわらず、米軍市場へ人材と製品開発を投入し続けたため、他の市場への参入が遅れオーデイオ業界で一人負けになったもの)がじわじわと始まっていた。
米軍重視のマーケテイングに胡坐をかき、一般市場の開拓が遅れた。
他のメーカーはこれから黄金期を迎えるのであった。後に来るオーデイオ不況を10年も前に先取りしていた。

 昭和49年4月のある日のことであった。
弘人が、厚木米軍ベースを回って帰社すると、翌日の社内ニュースが既に配布されていた。
中身は”長野事業所にて従業員の一時帰休を実施する“とある。
なんだこれは!振り返ってみると山水を破壊に追い込んだ大地震の前兆であった。

 翌日の一般全国紙において3段から4段の大ニュースで扱われた。

一時帰休とは、工場を一時的に閉鎖休業し生産は行われない。
従業員に対しては賃金の約8割を支給し自宅待機を命ずる。
期間は1ヶ月。

というものであった。
この施策は、経営的に見て、経費削減のメリットはほとんどなく、従業員に精神的不況感を煽るのみであった。
当時では前例がないリストラ策で、バブル前の日本経済急速な成長期の初期では、珍しいニュースであった。
とりわけ一般消費者市場に自己ブランド商品を売る企業にとっては、マイナス面しかないネガテイブな宣伝であり、皮肉にも山水が過去、新聞記事に取り上げられた中で本記事は最大のスペースで扱われた。

 これに先立ち、山水グループの労働組合の編成に大変化が起こっていた。

まず穏健派に近い山水全労働組合(全労)が、福島工場にあった山水音響労働組合と合併し、また一方、山水電気労働組合と、山水連合労働組合、山水ステレオ労働組合とが合併されサンスイ労働組合(山労)に統合された。
まさしく穏健派と過激派に分かれたのであった。

弘人はこの時期どこの労働組合にも所属していない。
海外貿易部の一般社員は、組合意識が低く、会社人間が多かったため組合員は少数派であった。
当然、山労は、一時帰休のニュースに激しく反発した。
しかしながら弘人ら、貿易部の人間にとっては他人事であった。
実際、当事者(一時帰休対象者)にとっても、経済的な痛みはほとんど無かった。
組合運動喚起の格好の材料でしかなかった。
おろかな施策であった。

 時を同じくして、別のニュースが貿易部を駆け巡った。

 人事部の発表によると、”貿易部の販売員手当てをなくし、残業手当とする“とのこと。
販売員手当ては当時12,000円であった。
初任給が5万円前後のころであったので、弘人の収入は大打撃である。
実際大幅な減給であった。
 残業は上司の命令次第で行われ、本人の都合で生活のために出来るものではなかったし、この手当ては入社時からの既得権益的なもので受け止められていたので反発は大きかった。

古参社員の安部久雄を始め、主だった社員は先頭に立って、反対運動を始めた。
弘人も及ばずながら反対運動に加わった。
しかしながら組織のない運動はしれたものである。

何の影響力も行使できなかった。このときお助け舟として甘いささやきが聞こえてきたのであった。
山労の組織が動き始めた。

 微震が次第に大きくゆれ動いてきた。

 主だった貿易部社員があっけなく組合に加入した。
販売員手当て廃止反対運動に熱を入れてきた弘人や、同期入社の柴山周平にとっても逡巡する余地はなかった。
 海外貿易部一般社員は女子社員も含めて、ほとんどが山労組合に加入した。
あろうことか、これを契機に貿易部社員50数名が2ヶ月間の部分ストライキ(貿易部だけストライキを行って就労しない)に突入したのであった。

 まさに強震から烈震への大揺れだった。

 弘人は、役員秘書の小竹とも酒を共にする機会が増え激論を交わした。
「会社があっての社員、組合であり組合運動は一定の範囲内でするべきしょう。」
小竹はキュウトな顔で、真剣に弘人に訴えた。
若い弘人は、もてあますエネルギーの持って行き場がなかった。

 柴山らと組合運動に没頭した、毎日会社に出社せずに、一時休暇反対、販売員手当て廃止反対の組合ビラを、サンスイ本社裏門をはじめ、井の頭線の永福町、明大前、吉祥寺の駅頭で毎日配った。
一般通行人は冷たい目を向けた。
当然である。
私企業の待遇問題に関心はない。

 弘人は吉祥寺駅でビラ配布中、大学同期の電通社員、黒田真にあった。
“お前何しているんだ”と訝られ返事ができなかった。
山水本社にはこのころから10年間赤旗の絶えることはなかった。
弘人は気が付かずに自分自身の首を絞め始めていたのだった。

 山労は三鷹事業所技術部門が主要メンバーを占めていた。
弘人の同期社員が多数参加していた。
そのほか長野事業所、静岡事業所がほぼ全員加入していた。
そこに組合無垢であった部門であり、会社売り上げ・利益の大部分を稼いでいた貿易部門が加わったのである。
 組合の勧誘も半端でなかったが、会社としても従業員を組合加入、闘争を加速させたことは歪めない。
貿易部の管理職は自身の報酬に変化がないからとは思いたくはないが、闘争を収めようとの努力はなかった。

 この事件を契機に海外営業本業よりも、組合活動との攻め合いに貿易部管理職と一般社員のエネルギーが費やされた。
俗にゆう、信頼関係が崩れ、人間関係がガタガタになった。
ともかく、何の成果もなく2ヶ月間の部分ストライキは収束された。

 これで終わりでなく始まりだったのであった。


>>>4.謀略事件 -1-


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