【1.新入社員】
名門山水電気、オーデイオ御三家などともてはやされた良き時代といえば、昭和年から年始めの頃でしょうか。
浅丘るり子の神秘的美貌がブラウン管に踊っていたサンスイのコマーシャルを、今、覚えている人は高齢の域にさしかかっている。
前田武彦の司会で、圧倒的な高視聴率をマークしたフジTVの超人気音楽番組“夜のヒットスタジオ”は午後時からの一時間番組で、其の最盛期にサンスイはメインスポンサーであった。
ステレオセットは若者が最も欲した家具であり、グレードによって其のステータスを競った最先端エレクトロニクスであり、時代の代表的文化であった。
上条弘人が地方から上京し名門私大を卒業して山水電気に入社したのは丁度この頃昭和年の春であった。
日本の家電産業はまだ大ブレークに到っておらず、米軍特需が始まったばかりで、家電、とりわけオーデイオと呼ばれた音楽再生産業が発展初期の緒についたばかりであった。
時代の流れといえば簡単だが、一企業の栄枯衰退を猛スピードで走り去った弘人の半生は、
一時代を象徴した戦いと妥協の歴史であった。
山水電気の創立者オーナー社長、菊池幸作は新潟県佐渡の出身で一代で山水を東証部上場会社に育て上げたヒーローのひとりである、当時ソニーの井深大、森田昭夫、パイオニアの松本望、トリオの
、などの時代を代表するファウンダーの一人で、ソニーは独自の総合家電メーカー、パイオニアはスピーカー、トリオはチューナー、そしてサンスイはトランスといった分業エクスパートで事業を展開した、後にサンスイはアンプの山水と言われる礎を築いた。
工場は埼玉本工場をベースに静岡、長野、須賀川、と次々に設立し、東京から等距離に工場を置いた。
後になって語られたことだが、地震などの災害があってもいずれかが生き残れるようにとの判断でロケーションを決定した当時菊池の判断は、現代においても其の先見性と企業防衛の見識は見事であった。
弘人、入社後、数年で菊池は失墜するのだが、弘人はその間数回しか菊池に接していない、最も新入社員と社長ではレベルに差がありすぎた。
菊池の先見性は各所に現れている。
静岡研修センターも其のひとつであった。当時東証部上場企業としては異例の規模と機能性を持ち人を個室に宿泊収容でき数ヶ月研修生活をおくれるといった当時の企業規模では膨大な設備であった。菊池は、
これからの企業成長のためには、人材開発育成が最重要戦略である。”といって数億円の予算を投入した。
弘人の初任給は万3千円の時代である。
研修センターは45年4月に完成した。残念ながら4月入社時に間に合わず新入社員は1ヶ月自宅待機した。
のどかな時代であった。
このとき総務部に人事課と並んで研修課が誕生した。
初代課長は宮本で、研修担当は小林後に組合対策で活躍する総務部長)であった。
弘人は初めて小林と静岡研修センターであった。兄貴分といった印象でその後20年間つかず離れずの関係が続いた。
宮本と小林は剛と柔の相反する性格不一致ではあったが小林が淡々と実務をこなし、宮本が高飛車に彼を引っ張っていった。後にこの地位関係が逆転するのだからおもしろい、当時は知る由もない。
人事課、研修課を統括する総務部、部長は後の国内営業本部、本部長になる豊島であった。
総務部長が何年も後に営業トップに就くのであった。
サンスイ電気はこの頃から人事部、総務部が他社とは一味違った存在感をもってくる。
何年か後には社内謀略戦争の統合本部になるのである。
当時ではこの45年入社の新入社員の中で数年後、獰猛果敢な組合戦士になるつわものが多数まぎれていたことは誰もわからなかった。
皆、普通に、平凡に、研修を終え夫々の配属に向かうのだが、実は、波乱の兆しが現れ始めていた。
千人前後の従業員の新興会社に100人以上の新入社員が参入した。
其の影響力は後に巨大に育っていく。
会社の命運は彼らに握られたも同然であった。
隠れた戦士は次第にゆっくりと台頭していくのであった。
弘人は、大学では技術系を専攻したが入社時には技術部を希望していない、魅力がないと思われた。
実際、当時も、後になってもだが、サンスイの技術は評判ほどに深みがなかった。
反面、マーケテイングとりわけ海外展開は時代を先取りしていた。外貨獲得企業の国内10位にリストされるまでになるのであった。
弘人は迷わず海外営業部を望み配属された。
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